兵庫県伊丹市にある、荒木村重ゆかりの城「有岡城」とその砦跡などの遺構に家族で行ってきました。
今回は私の母を同行での訪問です。
母はあまり健脚とは言えませんので現地近くまで車で向かい、途中で疲れたり足が痛くなったりした時の事を考えてなるべく訪問箇所の中心地あたりに駐車することを意識しました。
有岡城主郭の見学から3箇所の砦、他石垣などの見学で昼食を挟み約4時間30分ほど(約10000歩)のツアーでした。城好きのファミリーの参考になればと思います。
有岡城とは
有岡城は荒木村重の居城でした。元々は伊丹氏が治めていましたが、天正二年(1574年)に織田信長の家臣として荒木村重が落城させ、信長の命により有岡城と改名したのがはじまりです。
有岡城と呼ばれていたのは荒木村重が城主であった6年間(1574-1579年)だけで、天正五年(1577年)にはポルトガルの宣教師ルイス・フロイスが訪れ、「甚だ壮大にして見事なる城」と記したそうです。
しかしながら村重の謀反により天正七年(1579年)有岡城は落城、尼崎城と花隈城の明け渡し要求を村重は断ったため、人質であった荒木一族と重臣ら36名、家臣の妻子ら122名、それ以外の人質男性124名・女性388名、総勢約670名が処刑されました。
一族・重臣36名は市中引き回しのうえ京都の六条河原で断首、家臣の妻子ら122名は97本の磔柱で鉄砲による射殺、それ以外の人質男性124名と女性388名は農家に押し込め生きたまま燃やされる壮絶で悲惨な臨終でした。
有岡城の戦いについては、Wikipediaにも詳しく掲載されていますので興味があればご確認ください。
有岡城は荒木村重の頃に大改修された東西800m、南北1.7kmの日本最古の惣構えの城で、昭和54年(1979年)12月に国史跡に指定されました。
有岡城を訪問する前に昔の地図が残っていないか調査しました。伊丹市立博物館所蔵の文禄伊丹之図という物を見つけました。
本丸天守跡などの資料はデンジソウさんのブログにある地図しか見つけられませんでした。
これらを元に訪問場所を考えました。
紫色の枠が城郭の惣構え範囲です。薄紫の範囲は城の主郭にあたる部分です。Pは今回停めた駐車場、スプーンとナイフマークは昼食をとった三軒寺広場、番号は以下記事中の番号と合わせてあります。
訪問記
駐車場に停めた後、JR伊丹駅へ向かいました。駅に入る前に城跡の横を通りますが、見学したい気持ちをグッと抑え駅に向かいます。
陸橋から城跡が綺麗に見えます。
陸橋を渡るとJR伊丹駅です。
伊丹観光案内所
主郭の一部を削って(!)駅が作られています。
なんというもったいない事を・・
2階の改札横に伊丹観光案内所があるのでそこでパンフレットなど資料をいただきました。
他にも、「いたみiカード」「伊丹再発見ガイドブック」などのパンフレットもいただきました。いただいた後、もと来た道を引き返します。有岡城跡の標示があります。
カリヨンというオブジェが見えたら写真右手前のエスカレーターを降りて有岡城跡へ向かうのですが、その前に「官兵衛ゆかりの藤」を見ておきます。
①官兵衛ゆかりの藤
カリヨンのすぐ横に「官兵衛ゆかりの藤」があります。私達が訪問したのは1月頃だったので残念ながら藤の咲き誇る時期ではありませんでした。
説明板によると大河ドラマ放映を機に姫路城の藤から育てた子孫樹を植樹したんですね〜。
官兵衛ゆかりの藤
天正6年(1578年)、織田信長に反旗を翻した荒木村重を説得に黒田官兵衛が有岡城に赴きますが、村重は諸事情を考慮し、やむなく官兵衛を幽閉します。この間、官兵衛が力強く咲く『藤の花』を見て生きる勇気を得たという逸話は有名です。
このたび、平成26年・NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の放送を機に、有岡城の物語を後世に伝えるため、官兵衛ゆかりの姫路城の藤から育てた子孫樹をここに植樹します。
平成25年11月2日 伊丹市
②有岡城跡(主郭部)
「官兵衛ゆかりの藤」の左に、有岡城跡(主郭部)の説明板がありました。かなり汚れてしまっています。。。
史跡 有岡城跡(主郭部)
南北朝時代から伊丹氏の城として発展してきた伊丹城は、永正17年(1520)には城下町をも城の中に取り込んだ「惣構(そうがまえ)」構造の兆しが見られ、その後の一向宗との合戦など、数々の戦いを経て次第に強化されていきました。
天正2年(1574)、織田信長の部将、荒木村重(あらきむらしげ)が伊丹氏を破って入城し、「有岡城」と改名しました。そして摂津一国の軍事上の中心として大改修を行い、主郭部・侍町(さむらいまち)・町屋地区の全体を塀と土塁(どるい)で囲み、北・西・南にそれぞれ砦(とりで)を配した惣構の城を完成させました。
天正6年、村重が信長に背いたため、大軍によって包囲され、10ヵ月の攻防戦の末に落城しました。その後、池田之助(ゆきすけ)が城主となりますが、同11年には美濃国に移り、城は廃されました。城下町のうち町屋地区はそのまま残り、江戸時代には酒造りの町として栄えました。主郭部は「古城山」などと呼ばれ、堀跡や土塁が残っていましたが、明治時代に鉄道(現在のJR宝塚線)が開通したことにより、大半が取り壊されました。
しかし、昭和50年(1975)から行なわれた発掘調査により、土塁の石垣や建物跡など、貴重な遺構が残されていることがわかって、国史跡に指定されました。現在の史跡公園は昭和58年度から平成5年(1993)度まで10年以上かけて整備したものです。現在地から右手(北方)にある土塁・石垣・建物跡・井戸跡などもぜひご覧ください。
平成20年3月 伊丹市教育委員会
説明板で一通り学んだ後は、先程のエスカレーターを降りて有岡城跡へ向かいます。エスカレーターを降りると前方に石垣が見えてきます。
左方向に入り口が見えます。
近づくと綺麗に整備された入り口がみえてきます。
階段を上がって内部へ向かいます。
階段を上がってすぐのところに有岡城の城主、荒木村重についての説明書きが掲示されていました。かなり詳細に説明されていると思います。
有岡城主 荒木村重
平成26年2月 伊丹市教育委員会
荒木村重(むらしげ)は、幼名は十二郎(じゅうじろう)、後に弥介(やすけ)と改めます。父義村(よしむら)の代から池田城主 池田氏に仕えたとされています。
織田信長の上洛後、池田勝正(かつまさ)は、伊丹城主 伊丹親興(ちかおき)・芥川城主 和田惟政(これまさ)とともに「摂津三守護」となり、村重は勝正の家臣として、池田家中において徐々に力をつけ、池田氏の内紛に乗じてついに頭角を現します。元亀元年(1570)池田知正(ともまさ)らとともに勝正を追放し、翌年には勝正と結ぶ惟政を郡山(茨木市)の合戦で敗死させています。
元亀4年(1573)、逢坂(大津市)にて細川藤孝(ふじたか)とともに信長に対面し、その後は信長を主君と仰いで、将軍 足利義昭(よしあき)を槇島(まきしま)城(宇治市)に攻撃する際にも従っています。この時の忠節を賞賛されて、信長より摂津国を一職(いっしき)支配する「摂津国主」に任じられます。
天正2年(1574)11月15日、伊丹氏を追い落とし、伊丹城に入城します。以後ここを居城に定め、有岡城と改名しました。信濃守(しなのかみ)村重は、天正3年、摂津守(せっつのかみ)になります。
有岡城主となった村重は、以後、信長の配下として天正3年10月、播磨へ出兵し、翌年4月は光佐(顕如)が立て籠もる石山本願寺(大阪市)包囲に加わります。天正5年には、羽柴秀吉とともに雑賀(和歌山市)を攻めています。
天正6年、足利義昭や毛利輝元に通じて信長に反した別所長治(べっしょながはる)を三木城に攻めます。
しかし、同年10月、突如、村重も信長から離れ、石山本願寺とも盟約を結びます。その情報は安土城へ届き、信長は村重を思い留まらせるために明智光秀ほか近臣を有岡城へ遣わしますが、村重の決意は変わりませんでした。
村重とともに毛利方についた御着(ごちゃく)城主 小寺政織(こでらまさもと)でしたが、やはり信長方へ戻るため、村重を説得しようと、家臣の黒田官兵衛を有岡城へ遣わします。村重は、このままでは信長方となる官兵衛を城内に留め置きます。
11月、信長は安土城を発ち、古屋野(こやの、昆陽野)の陣に入ります。12月には主力部隊を塚口に置き、有岡城を総攻撃しますが落ちません。そのため、有岡城を取り囲むように付城(つけじろ)を築くよう指示します。
天正7年9月、村重は数名の家臣とともに、尼崎城主である嫡男 村次(むらつぐ)のもとに移り、本願寺・雑賀・毛利方へ援軍派遣を要請しますが、村重が望むような援軍は来ません。
有岡城の町が信長方に取られ、10月、上臈塚(じょうろうづか)砦より信長軍が侵入し、侍町に火が放たれ、すべてが焼かれ防備がなくなると、11月、城は落ちてしまいました。村重父子は尼崎城が落ちると花熊(はなくま)城(神戸市)へ移り、その後西走します。
村重は、尾道にて入道し、「道薫(どうくん)」と名のります。信長の死後尾道より堺に移り住みました。
天正14年(1586)、堺にて没したとされています。
入ったところには石でできた有岡城についての説明書きがありました。
国指定史跡 有岡城跡
昭和五十四年十二月二十八日 指定
伊丹氏がこの場所に城を築いたのは、鎌倉時代末期頃のことである。はじめは居館として建てられたが、戦国時代を経て次第に堅固な構えになっていった。
伊丹氏の城は、天正二年(一五七四)織田信長方の武将荒木村重の攻撃によって落城した。その後村重は信長の命により有岡城と改名し、壮大な城を築いた。
有岡城は伊丹段丘の高低差を利用し、南北一・六キロメートル・東西八〇〇メートルに及ぶ惣構えが築かれ、要所には岸の砦・上臈塚砦・鵯塚砦が配置された。
謀反を起した村重は、天正六年、信長勢の攻撃を受け、十ヵ月間の攻防の末、強固な城も遂に落城した。
天正八年、池田之助が城主となるが、同十一年美濃の国に転封を命ぜられ、廃城となった。
明治二十六年、鉄道の開通によって、城跡の東側が削り取られたが、土塁や堀など今もよくその姿をとどめている。
昭和五十年より発掘調査が実施され、土塁・石垣・堀・建物・池等の遺構を検出し、中世城郭から近世城郭への移行期の様相が明らかになった。
平成四年三月 伊丹市教育委員会
西側には礎石建物跡がありました。何の建物だったんでしょうか?
礎石建物跡の横には井戸跡がありました。
奥にも井戸跡があります。
奥の井戸の正面に石碑が建っていました。漢文で書かれていて意味がわかりませんが隣に説明書きがありました。
懐古園 碑文の概要(意訳)
この地は、もともと荒木村重の城郭があった跡であるが、次第にさびれて、武内氏の所有するところとなった。氏は城跡が滅していくのを嘆き、修復して永く後世に伝えようと欲したが、果たさずに亡くなった。未亡人の奈如女は、その意志を継ぎ、時期が来るのを待った。この丘陵はたいへん風光明媚で葛城・金剛・六甲・池田の山々に囲まれ、足もとを猪名川が流れている。村重から三百三十年にあたり、未亡人は先人の志を生かそうと決意してこの碑を立て祭りをした。未亡人の貞節と子息利右衛門の孝順を称え、荒木氏の霊も以って冥すべきである。明治三十四年九月二十四日 七十五翁 北山撰ならびに書
石碑の左隣には復元された有岡城の石垣があります。
復元石垣の左隣には土塁があります。写真は土塁前から復元石垣を見る図です。
昭和51年の発掘調査の写真を見るとこの復元石垣と土塁は当時の姿のようです。
史跡を後にしようとした時に入り口近くにもうひとつ石碑があるのを発見しました。村重とその妻だし(たし)の詠み交わした歌が刻まれていました。
だし「霜がれに 残りて我は 八重むぐら なにはのうらの そこのみくづに」
信長公記より 鈴木充書
村重「思いきや あまのかけ橋 ふみならし なにはの花も 夢ならんとは」
石碑を見て階段を降り、土塁の裏側(西側)へ向かいました。
③主郭西側堀跡
主郭西側の堀跡に来ました。右側が主郭です。
堀は北に向かって下りの傾斜がついています。来た方向を撮影してみました。
Googleフォトに写真を保存しているとGoogleが自動的にパノラマ写真にしてくれました。
NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」では有岡城の土牢に囚われた官兵衛を栗山善助が堀を泳ぎ発見するシーンがありました。土牢はこのあたりにあったんでしょうか?そんな事を色々想像するのも楽しいもんです。
主郭はJR伊丹駅よりも南までの範囲です。陸橋より南側の堀跡も見学しました。
続いて、荒木村重を弔うために建立されたという「荒村寺(こうそんじ)」に向かいます。荒村寺は主郭の南端に位置します。
④荒村寺
荒村寺の門前です。施設内も覗きたかったのですが、私達が前をウロウロしだすと柵を閉じられてしまいました。。
あまり歓迎されていない雰囲気でした。。大河ドラマブームの時に何かあったのでしょうか?
気を取り直して、そばにある説明書きを読みます。
荒村寺(鬼貫の句碑)
荒村寺はJR伊丹駅の南、伊丹台地の崖線上に建っている。この付近は以前は伊丹字古城とよばれ、有岡城跡(伊丹城跡)の一部にあたる。天正七年(一五七九)織田信長に攻め落とされ、城跡だけになっていた。
荒村寺の由来記によれば、この寺に伊丹郷町の木綿屋徳三郎が禅宗に深く帰依し、郷町の堺町にあった閑室に嘯山虎渓和尚を招いて参禅したのがはじまりで、ついで法国尼僧らがこの庵室をまもった。寛政十ニ年(一八〇〇)堺町の都塵をさけて現在の城跡に移された。人々はこの庵室を城山庵とよびならわしていたが、荒木村重の古城の由緒をもって、荒村庵と改名され、現在の寺号のもととなった。寺内には、江戸時代の伊丹の俳人上島鬼貫が、有岡城跡を訪ねたとき、いばらの茂みに隠れて鳴くきりぎりすの侘しい光景に心うたれて詠んだといわれる句碑がある。
古城や茨(いばら)くろなる蟋蟀(きりぎりす)
伊丹市教育委員会
荒村寺は、すでにご紹介したデンジソウさんの本丸地図からもわかるように、元々はJR伊丹駅西のカリヨンのあるあたりにあったようです。
荒村寺の裏側の小高い山には「有岡城の戦い」で亡くなった人を祀る慰霊碑があります。下のほうで仕切られているため、近づいて見ることはかなわず。
主郭部分はこれで終わりですので、有岡城最北端の岸の砦跡へ向かいます。岸の砦跡へ向かう途中、伊丹郷町の大溝跡に寄って行くことにします。
⑤伊丹郷町の大構跡
伊丹郷町の大溝跡はニトリ前にあります。平成15年度の発掘調査で発見された大溝跡で、有岡城の堀を埋め立てた跡地に石造りの大溝が築かれていたことがわかったそうです。
伊丹郷町の大溝跡
平成15年度に行った現在地北側の敷地で発掘された大溝を再現しました。 江戸時代の古絵図にも描かれている水路で、本町通りに面して建ち並ぶ酒蔵からの排水が主な用途でした。酒の仕込みの時期には、酒の甘い香りが漂っていたことでしょう。
この度の発掘調査により、有岡城の堀を埋めた跡地に石造りの大溝を築いていたことがわかりました。大溝の築造時期は、伊丹の酒造業が発展する江戸時代前期の頃です。
伊丹市教育委員会
大溝の規模は、幅1~1.2m、深さ1~1.5mで、松の丸太材や廃船の板材を敷いた上に割石や川原石を積み上げていました。
大溝跡の横、ニトリ入り口を挟んで西に江戸時代の伊丹郷町についての解説が掲載されています。
伊丹郷町
江戸時代の伊丹郷町は、都の貴族近衛家の領地となり、城は置かれず、町の有力な酒造家から選ばれた惣宿老や御金方らの役人が近衛家の指示のもとに町政を担当しました。
伊丹郷町の近郊「鴻池」に始まったとい云われる清酒造醸造は、ここ伊丹郷町で本格的に行われ、近衛家の保護のもと大いに栄えました。伊丹の酒は「丹醸」とよばれて愛好され、最盛期には毎年20万樽もの酒が樽廻船で江戸に運ばれています。こうした伊丹郷町の豊かな経済は、多くの文人異客が訪れるなど、活発な文芸活動ももたらしました。
伊丹郷町は、伊丹・北少路・昆陽口・外域・高畑など15の村が一続きとなった町場で、その中心部伊丹村は酒造業の繁栄とともに次第に広がり、江戸後期には伊丹郷町全体で約2,500軒の町家と10,000人の人口をかかえる大都市に成長しました。
伊丹市教育委員会
伊丹郷町の案内板で学んだ後は「尼崎池田線」を超えて岸の砦跡(猪名野神社)へ向かいます。
⑥岸の砦跡(猪名野神社)
有岡城惣構え北側の守りである岸の砦跡は猪名野神社内にあります。織田信長の有岡城攻めの時には荒木村重の重臣、渡辺勘大夫が守っていたと言われています。
鳥居をくぐってすぐのところに岸の砦跡の説明書きがありました。
国指定史跡 有岡城 岸の砦跡
有岡城は、伊丹台地の東縁の高台を巧みに利用した平城である。侍町、城下町の周囲を土塁(どるい)と堀で囲み、町ぐるみを城塞化した惣構(そうがまえ)構造で、南北千七百メートル、東西八百メートルの範囲に及んでいる。要所には、岸の砦(とりで)、上﨟(じょうろう)塚砦、鵯(ひよどり)塚砦が築かれていた。砦のうち有岡城惣構の北端に設けられたのが、岸の砦である。位置的にみて猪名野神社境内にその場所が推定されている。境内には土塁跡・堀跡が残されており、往時を偲ぶことができる。
天正七年(一五七九)、織田信長の有岡城攻めのとき、荒木村重の重臣渡辺勘大夫が守っていた。
伊丹市教育委員会
説明書きで学んだ後はそのまま神社の奥へと進みます。岸の砦の土塁跡は本殿の奥に位置します。
岸の砦西側を見ましたが、東側も見てみます。
東側の住宅地とはかなりの高低差があることが写真からもわかっていただけるのではないでしょうか?ここを陥落させるのはなかなか難儀でしたでしょうね〜。
次は有岡城西の守りの要、上臈塚砦跡へ向かいます。
朝9:00頃からスタートした見学ですが、このあたりで11:00頃になったので、途中の三軒寺広場で持参したサンドイッチとコーヒーで少し早い昼食をとりました。
⑦上臈塚砦跡(伊丹シティホテル周辺)
伊丹シティホテルから墨染寺のあたりまでが上臈塚砦跡だったようです。伊丹シティホテル周辺はやや傾斜がある他ほとんど何もなく、感動が薄く写真を撮るのを忘れてしまいました。(汗)
しかしながら、西側の境であっただろう墨染寺の西側の南北方向の道路には石垣のようなものの名残がありました。
⑧上臈塚砦跡石垣名残
上臈塚砦は中西新八郎が当時守っており、織田軍の攻撃を防いでいましたが、滝川一益の誘いに乗り織田側に寝返ります。結果、上臈塚砦は陥落し有岡城落城に繋がって行きます。
続いて同じ上臈塚砦の場所に位置する墨染寺に向かいます。
⑨墨染寺
「すみぞめでら」ではありません。「ぼくせんじ」です。墨染寺は有岡城落城の際に処刑された女性達の供養のために建立されたと言われ、荒木村重の墓もあるとのことで訪問しました。
寺内一番奥の墓地に女郎塚を発見しました。
塚には「天正七年(1579)12月23日落城」と刻まれていました。当時処刑された約670名もの人質の事を思うと何とも言えない気持ちになります。
続いて荒木村重の墓と言われている供養塔です。
上部が切れて撮影してしまいました(汗)
これにはワケがありまして、、実は撮影している時は荒木村重の墓とは知らなかったからです。なので奇跡的に撮影していたというのが正解です。
こちらは何種類かの石を組み合わせて作った塔と言われています。この塔はもともとこちらのお寺に存在したものでは無く、鵯塚(ひよどりづか)にあったものを近世になってから移設されたもののようです。
墨染寺には松尾芭蕉と並ぶ俳人として有名な鬼貫親子の墓もあります。
鬼貫親子の墓を見学した後は有岡城惣構の西側石垣跡へ向かいます。
⑩石垣・有岡城 惣構え西側
有岡城惣構の西側石垣です。大きな道路に面しており駐車場の奥に位置するため、ほとんど知られていないのでは?と思います。
石垣と言ってもこの石垣は有岡城廃城後、江戸時代に作られたものだそうです。当時の石垣では無いですが、ここを境に一段高くなっているのがわかります。
マンション前に有岡城跡・伊丹郷町遺跡 第290次調査の時の解説プレートがありました。
続いて、鵯塚砦跡へ向かいます。鵯塚砦跡へ向かう途中、有岡公園西側の南北に通じる道路を通ると旧大坂道の案内板を発見しました。
⑪旧大坂道
旧大坂道は江戸時代からの町家や蔵が残る歴史ある町並みを残しています。伊丹市は景観を保護するためにこの地域への建築は規制しています。
旧大坂道を有岡公園から北方向を望むと。。
南方向を望むと。。
ずっと歩き通しだったので、息子をしばし有岡公園で遊ばせリフレッシュさせました。
リフレッシュ後はこの旧大坂道を南へ、いよいよ有岡城惣構ツアー最終目的地鵯塚砦跡へ向かいます。
⑫鵯塚砦跡
こちらが鵯塚砦跡です。旧大坂道から東方向を見た写真なのですが、住宅奥に見える木のあたりがそうです。ここは私有地なのでこれ以上近くで撮影ができません。
知っていないとここが歴史的な史跡だとは誰も気づかないでしょうね(汗)
旧大坂道を南へ進むと踏切がありますので渡り、せっかくなので砦跡の東側からも見てみることに。
う〜ん。うまく撮れません。。(汗) 肉眼だとなんとか見えるのですが。。線路を挟んで向こうに見えるのでちょっと離れていて見にくいです。
有岡城惣構ツアーはこれにて終了です。時計を見ると13:30頃でした。
まとめ:有岡城の見学は3つの砦跡をまわり惣構えを体感するのが面白い
朝9:00頃から現地駐車場に車を停めて、お弁当タイムを含め13:30頃までのトータル所要時間4時間30分ほど(約10000歩)のツアーでした。
お城見学というと天守周辺の見学だけで終わりがちですが、惣構えを意識して見学するとあちらこちらに史跡があり、城郭全体のスケールが実感できます。
有岡城は日本最古の惣構えの城と言われており、北端・西端・南端に砦がありスケールを実感しやすかったです。
ぜひ一度訪問してみてくださいね。
(2019年1月訪問)
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