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たけのこや竹の建材利用のまとめ

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【野田院古墳】大麻山キャンプ場にある古墳!運が良いと雲海も見れる

野田院古墳

野田院古墳は大麻山キャンプ場の横にあります。

2019年年末の四国100名城めぐりキャンプ旅の初日に大麻山キャンプ場でキャンプしました。

ちなみに野田院古墳の読み方は「のたのいんこふん」です。

野田院古墳の概要

野田院古墳は、香川県善通寺市内に6つある有岡古墳群のひとつで他には鶴が峰4号墳磨臼山古墳丸山古墳王墓山古墳宮が尾古墳があります。

昭和57年の王墓山古墳発掘調査で豪華な副葬品の出土や大和政権などと親しい関係を示す貴重な資料が発見され、この発見により有岡古墳群として国の史跡として指定され保存されることになったそうです。

野田院古墳の見どころ

野田院古墳の見どころを紹介します。

  • 全国的にも出土が少ない積石塚という手法で造られている
  • 展望台から古墳全体・善通寺の街を見渡せる(標高400m)
  • 隣接しているキャンプ場が使える(要予約)

全国的にも出土が少ない積石塚という手法で造られている

専門家ではないので詳しくはよくわからないのですが、一般的な古墳では盛り土の周りに石を配し造ることが多いそうなのですが、野田院古墳では「積石塚」で造られた古墳だそうです。

積石塚とは盛り土ではなく石で積み上げて造られる古墳のことで、全国的にも出土が少ない貴重な遺跡です。

展望台下に設置された「積石塚」のしくみがよくわかる見本
↑展望台下に設置された「積石塚」のしくみがよくわかる見本(実寸より縮小)
息子
息子

こんなの初めて見たぞ!

展望台から古墳全体・善通寺の街を見渡せる(標高400m)

野田院古墳には、かなり立派な展望台が設置されています。ネットの情報によれば夜景も綺麗なようですが、私たちが到着した時はあいにくの雨模様。

たか
たか

残念ながら夜景は見れませんでした。

かなり高さのある展望台
↑かなり高さのある展望台

この展望台に登ると古墳全体が見渡せるように作ってあるようです。

展望台から古墳を眺めるとこんな感じ
↑展望台から古墳を眺めるとこんな感じ

天気が良ければ瀬戸大橋や本州の岡山広島なども見えるそうです。私たちは翌日朝早くの出発でしたので景色も眺めることができませんでした。

眺めの様子が写された写真が掲載された現地案内パネル
↑眺めの様子が写された写真が掲載された現地案内パネル
たか
たか

景色は見れませんでしたが、そのかわり貴重な雲海を見ることができました!

前日の雨のおかげか、貴重な雲海をカメラに納めることができたのでご覧ください。

野田院古墳展望台からの雲海

隣接しているキャンプ場が使える(要予約)

これが、野田院古墳の最大のポイントかもしれません。野田院古墳に隣接して大麻山キャンプ場があります。到着したら展望台からの眺めに感動し、夜になれば夜景を楽しみ、そのままキャンプで1泊し翌朝には起床とともに雲海を眺めて帰宅。なんてこともできるかもしれません。

たか
たか

しかもキャンプ場の利用は無料!!(要予約)

キャンプ場の利用について詳しくは以下の記事にまとめてあるのでそちらをご覧ください。

野田院古墳の訪問記

ここからは訪問した時の記録です。

隣接の大麻山キャンプ場で1泊し朝になりました。朝ごはんを軽く食べたのちテントの撤収を済ませ、キャンプ場を発つ前に古墳見学。前日の雨もなんとかポツポツ雨くらいになって助かりました。

野田院古墳全景。3枚の写真をつなぎ合わせたパノラマビュー
↑野田院古墳全景。3枚の写真をつなぎ合わせたパノラマビューです。

柵がしてあって中には入れませんが年に1度、善通寺が制定する4月29日古墳の日」に石室内を特別公開されるようです。

息子
息子

古墳の上にも立てるよ!

古墳前の説明パネル

柵の手前には説明パネルがありました。かなり貴重な史跡資料であることが説明からわかりますね!以下パネルの写真と書かれている説明文です

古墳時代のパネル写真

古墳時代 Kofun Period(ca.300-700AD)

 善通寺市は瀬戸内海に面し、温暖な環境で生活しやすい場所であったことから、古くから大勢の人が住み、独自の文化を育んできました。少なくとも旧石器時代の終わり頃(2〜3万年前)には人々の生活が始まり、弥生時代には大きな集落が誕生していたことが明らかになっています。

 弥生時代の終わり頃(3世紀後半)になると集落はさらに発展し、政治的に人々をまとめる有力者が登場します。この有力者は豪族と呼ばれ、人々は豪族が亡くなると大きな墓を造って葬るようになりました。

 やがて各地の国は大和の大王家を中心に統合され、前方後円墳という大王墓にならった墓を造るようになります。大きな墓は仏教が伝わり火葬が始まる7世紀初め頃まで造られました。この大きな墓を古墳と呼び、古墳が造られた時代が古墳時代です。

古墳の墳丘や石室を調べると、驚くほどすぐれた土木技術があったことがわかります。また、死者にそなえられた副葬品からは当時の生活の様子やどのような工芸技術があったのかがわかります。

有岡古墳群の説明

有岡古墳群  Arioka Kofun Group

 善通寺市内には400基以上の古墳があります。昭和57年に発掘調査した王墓山古墳では、石屋形をもった横穴式石室から、豪華な副葬品がたくさん出土し、その中には大和政権や九州の先進地域との親しい関係を示す貴重な資料もありました。この発見によって王墓山古墳と周辺の代表的な5基の古墳(野田院古墳・宮が尾古墳・丸山古墳・鶴が峰4号墳・磨臼山古墳)が、有岡古墳群として国の史跡に指定され、永久に保存されることになりました。

 6基の古墳は、この地域を治めた豪族の墓と考えられ、香川県(讃岐)の古代史を知る上で重要な遺跡です。

積石塚の説明パネル

積石塚 Cairn Tomb

 古墳の中には土の代わりに川原石や山石を積み上げて造った「積石塚」と呼ばれるものがあります。瀬戸内海沿岸部には香川県を中心に、古墳発生期から前期にかけて造られた数多くの積石塚が分布していることが知られています。  この他には長野県を中心に分布する古墳時代後期から終末期にかけて造られた積石塚が知られている程度で、全国的には分布していません。

 朝鮮半島にも同様の積石塚が認められることから、渡来人が伝えたとする「外来説」と、日本で独自に発生したとする「自生説」がありますが、香川県では白鳥町の成重遺跡(弥生時代中期)や善通市の稲木遺跡(弥生時代後期)で集石墓が確認されており、積石塚は古代の讃岐で発生したのではないかと考えられています。これは讃岐地方に古式の積石塚が多く残ることも符合します。

 野田院古墳では保存整備工事に伴う墳丘積石内部の発掘調査によって、優れた土木技術を用いて構築していたことが判明しました。讃岐地方の積石塚で内部構造が明らかになったのは初めてのことです。弥生時代の集石墓は平地にあります。また、川原石を積み上げた簡単な構造であり、短時間で技術が発達するとは考えにくいことから、自生説とともに高句麗の積石塚の構築技術の伝来も考える必要があるかも知れません。

野田院古墳が造られた時の様子(想像図)のパネル

野田院古墳が造られた時の様子(想像図)

(左側パネル上)この古墳には2基の石室があります。夫婦・親子・兄弟の墓など様々な説がありますが、よくわかっていません。

(左側パネル下)集落を離れた場所での長期間の工事です。一時的に生活できるような家が作られていたかも知れません。

(中央最下部)前方部は後円部が完成するまでの間、重い石材を運搬する作業道として使われていたようです。この後、更に土を盛り、石を葺き前方部を完成させています。

(右側パネル最上部)ここは標高400mの高さにあるため、当時の人が住んでいた平野部はもちろんのこと、瀬戸内海や対岸の岡山・広島まで展望することができます。

(右側パネル2段目)今の市街地のあたりが当時の生活の中心でした。

(右側パネル3段目)古墳のまわりや石室の上には赤く塗った壺形土器を並べていました。ここが聖域であることを示すもので、埴輪のもとになるものです。

作業工程1〜3の説明パネル

【作業工程(1)】
 最初に古墳を構築する場所を決めます。野田院古墳の場合は見晴らしのいい尾根が選ばれました。
 まず尾根の上を平らに整えることから始めますが、その周囲には急な斜面が残ります。平坦部から一部傾斜部にかけて後円部の円周を設定し、これに沿って石材を配置しています。

【作業工程(2)】
 次にその内側に石材を詰めます。平坦部では小型の石材を詰めていくだけですが、傾斜部では内部に詰める石材は比較的大きく扁平なものが多く、地山と逆の向きに連続して立て、整然と配置しています。これは斜面部分の石材が下方に滑り出すことを防ぐことが目的と思われます。傾斜部に高く石材を積み上げる際に、崩れにくい積み方を知っていたようです。この工程で後円部の基礎を水平に仕上げています。

【作業工程(3)】
 作業工程(2)で造られた平坦部の上に二基の石室を造り始めます。まず石室を造る部分に細かい石を敷き詰め、この上に荒い粘土を敷き、石室最下段の石材を配置します。次に粘土床用の細かい粘土を敷いています。この粘土は石室の床面だけでなく、石室最下段の石材を包むようにその外側にも及んでいます。この粘土の中から多数のガラス小玉が出土しました。通常の副葬品ではなく祭祀遺物だったようです。
 石室の四方の壁を積み上げながら後円部周囲の壁も同様に高く積み、その間に石材を詰めていきます。後円部の一段目は石室の下半分が積み上がった段階で完成します。この作業工程は解体修理の時に後円部の断面で確認できました。

作業工程4〜5説明パネル

(最上部写真説明)後円部と前方部の接合部に残る後円部(一段目と二段目)の検出状況です。後円部を積んだ後に盛り土の前方部が造られたため、この部分では後円部の石積みが崩れずに完全な形で残っていました。後円部はこれを参考に復元しました。

【作業工程(4)】
 次に後円部一段目の上に二段目を造り始めますが、この時に前方部の一部を坂道状に造っています。古墳を造る場所を決めるにあたっては、その材料となる石材の取りやすさも大きく影響したと思われますが、野田院古墳の北東のある尾根付近には石材の露頭地があり、尾根伝いに運び降ろしたものと考えられます。前方部は土でできていますが、くびれ部でその断面を見ると後円部の1段目の高さで前方部側にゆっくり下る面が確認できます。墳丘(後円部)へと石材を運びやすくするための坂道が造られていたようです。この作業道を利用して重い石材を運び上げたようです。
 二段目は一段目よりひとまわり小さくし、まわりに平坦な段を造っています。造り方は一段目と同じで、石室の四方の壁が完全に積み上がった高さで後円部の二段目が完成しています。

【作業工程(5)】
 ここで石室に巨大な石で蓋をします。この蓋石を覆い隠すため、この上には更に多くの石が積まれていたようですが、後円部の三段目は完全に崩れていたためもとの形は不明です。
 最後に作業道としての使用が終わった前方部を完成させ、その表面に石を葺き古墳が完成します。
 後円部の北西側は不安定な斜面にはみ出ています。後円部を作る場所をここから少し南東に移せば、全体を平坦な場所に作ることができたはずです。傾斜部に造られた後円部の側面はとても高い壁になっていて、しかも平野の方に向いています。皆が生活する場所からよく目立つように考えたようです。

野田院古墳保存整備事業の説明パネル

野田院古墳保存整備事業 Conservation and Presentation of Stone Mound

 昭和59年11月29日に有岡古墳群が国の史跡指定を受けた後、最初に王墓山古墳、続いて宮が尾古墳の保存事業を実施し、平成9年度からは野田院古墳の発掘調査と保存整備事業に着手しました。
 発掘調査は平成13年度まで実施し、平成12年度からはじまった保存整備工事は平成14年度に竣工しました。積石塚の内部構造まで調べる発掘調査や解体修理・保存整備は国内でも初めての試みでしたが、古墳の内部構造や構築の工程まで知ることができました。
 野田院古墳が造られた時の集落は今の善通寺市街地の辺りで標高は約30m、野田院古墳は標高400m付近にあり、全国で最も比高差のある場所に造られた古墳としても知られています。付近には視界をさえぎる山も少なく、古墳からは丸亀平野・三豊平野・瀬戸内海はもちろんのこと、遠く吉備(岡山)・安芸(広島)・伊予(愛媛)まで展望できます。展望台からご覧ください。

展望台

パネルを見学したら次に展望台へ行きます。

展望台

展望台の下には積石塚のわかりやすい断面見本が造られていました。

積石塚の断面見本1

パネルの説明(左から)

1段目テラス(石室の下半分が積み上がった段階の高さ)

2段目テラス(石室の四壁が完全に積み上がった段階の高さ)

地山の傾斜と逆の向きに連続して立て整然と配置された石材

石室の拡大(見本)

パネルの説明

墳丘と石室は並行して造られていることがわかります

この断面見本は実際の2分の1の大きさです

一番右には内部構造模型の説明がありました。

野田院古墳後円部の内部構造模型の説明パネル

野田院古墳後円部の内部構造模型 Cross-section-Model of Srone Mound

 善通寺市では昭和57年度に実施されて王墓山古墳の緊急発掘調査を契機に、市内の代表的な6基の古墳が有岡古墳群として国の史跡に指定されました。そして昭和61年度から平成3年度まで王墓山古墳の、平成4年度から平成8年度まで宮が尾古墳の保存整備事業を実施しました。
 続けて平成9年度から平成14年度にかけて野田院古墳の保存整備事業を実施しました。野田院古墳は石を積んで造った前方後円墳です。このような古墳は積石塚と呼ばれており、香川県を中心に瀬戸内海沿岸部に多く分布していますが、内部構造まで解明するような大規模な発掘調査や解体復元工事は国内でも初の試みでした。
 もとの姿をとどめる部分をできるだけのこすため、墳丘の調査は解体修理を行う範囲に限りましたが、これまでに知られていなかった優れた土木技術や知識によって造られていることが判明しました。
 一番驚いたことは斜面部分の基礎の構造です。後円部は平らに整えられた尾根の上から一部急な斜面にかけて造られています。平坦な部分の内部には小型の石材を詰めていますが、傾斜部では内部に詰めてある石材は比較的大きく扁平なものが多く、地山と逆の向きに連続して立て、整然と配置しています。これは斜面部分の石材が下方に滑り出すことを防ぐことが目的と思われます。傾斜部に石材を高く積み上げた時に、崩れにくい積み方を知っていたようです。このような工法で後円部の基盤が丈夫に造られています。左の石貼りはその断面模型です。
 調査では構築の工程まで知ることができ、そこで得られた資料によって野田院古墳を構築された当時の姿に蘇らせることができました。

(左下部の写真)後円部発掘調査時の航空写真(平成12年度) 後円部の輪郭がはっきり見えます。中央には2基の竪穴式石室が見えます。前方部には石が葺かれていますが、内部が土なので全体が草で覆われています。

(右上部)傾斜部での後円部内部検出状況(平成13年度) 比較的大きく扁平な石材を地山の傾斜と逆の向きに連続して立て、整然と配置しています。

積石塚について学んだあとは、いよいよ展望台に登ります。展望台に立って眺めるとそこには一面の雲海が広がっていました。

展望台からの眺め(雲海)

↓感動したので思わず動画も撮影しました。

雲海の動く画像

前日夜は旅行初日でいきなりの雨が降り出し、テントの設営も大変だったのですが、そのおかげでかえって雲海を観れたのかもしれないと思うと気分も晴れ晴れとしちゃいました。

たか
たか

超感動しました!

雲海を観れた興奮を抑え、あらためて古墳を見ます。展望台が絶妙な角度で作られているので古墳全景をしっかり見ることができました。

野田院古墳の展望台からの全景

そして展望台の上にも説明パネルがあります。

野田院古墳遺構及び施設配置図のパネル
↑野田院古墳遺構及び施設配置図
野田院古墳からの展望案内パネル

野田院古墳からの展望

野田院古墳が造られた時の集落は今の善通寺市街地の辺りで、その標高は約30m、野田院古墳は標高400mにあり、全国で最も比高差のある場所に造られた古墳としても知られています。

まとめ:野田院古墳は貴重な史跡で雲海も見れるすばらしい所だった

「【野田院古墳】概要・みどころ・訪問記<雲海あり>【香川県善通寺市】」について書きました。

私たちは時間の都合やあいにくの天気で標高400mの市街が見れなくて残念でしたが、雲海も見れたし良しとします。キャンプ場もありますので、じっくり腰を落ち着けて楽しめますが、くれぐれもマナーには注意して見学してみてください。

それでは@Kami_gurashiでした。

アクセスと基本情報

名称野田院古墳(のたのいんこふん)
住所香川県善通寺市善通寺町字長谷2830-196(大麻山中腹)
電話番号0877-63-6328(生涯学習課)
営業時間24時間
定休日なし
公式サイト善通寺市デジタルミュージアム 野田院古墳(有岡古墳群) - 善通寺市ホームページ
アクセス善通寺駅から車で30分
最寄駅善通寺駅、金蔵寺駅
野田院古墳の基本情報
この記事を書いた人
たか

20年近く身を置いたある業界で仕事をするうちに、健康面やライフスタイルについて深く考えることが増え、理想と現在の生活スタイルにギャップを感じるようになり、ついに新たな挑戦として農的暮らしを開始しようと決意しました。

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