閑静な住宅街の中にある「零戦」のレプリカがあるお寺「宝塚聖天 七宝山了徳密院」に行ってきましたので、ご紹介します。阪急電鉄「逆瀬川駅」バスターミナルより「光が丘北」行きに乗車、「聖天寺下」で下車、徒歩10分です。
私たちはバスには乗らず逆瀬川駅から歩いて行きました。
宝塚聖天の御由緒
通称は宝塚の聖天さん
通称「宝塚の聖天さん」と呼ばれている七宝山了徳密院は大阪浦江福島聖天了徳院の別院として、大正8年、日下義禅大和尚(元真言宗東寺派管長)によって、建立されました。
日下義禅和尚は、平素から弘法大師を非常に敬慕されていましたが、大師の平民学校(京都、綜芸種智院)開設に習ってちょうどこの年、池田市石橋の地に宣真学園の創設にも力を注がれています(大正9年創立)。
良元村から宝塚市へ
当時兵庫県武庫郡良元村にして平塚嘉右ヱ門という人がおられました。此の人は、当時まだ1寒村であった良元村を、今日の宝塚市に発展させた主役の一人でありますが、ある機会に日下大和尚と会談された際、たまたま支多々川流域の領地開発のことに及びました。
当時此の附近一帯は小石の多い広々とした河原でありましたが、此処には古くから宝塚の名の根源となった「宝の塚」-現在は宝梅中学校内-があり、また隣接地の行者山の岩窟には役の行者、神変大菩薩尊が祀られていましたので、大和尚は、これらの不思議な因縁に深く心を打たれ「ここに法憧を樹つべし」との神仏冥々の声を聞かれたと伝えられています。
大和尚の開山の情熱と法力とは、その精根つくして当山開創に注ぎ込まれました。平塚嘉右ヱ門翁はまた大檀越として外護、護持に力を尽くされ、京阪神十方の檀信徒はこれに協賛し、その賛助の力は、ここに結集されて、本道、庫裡、遍照閣、鐘楼等の堂字相次いで建立され、また参拝者の修養の場として信徒会館、阿字館等の施設や茶室も設けられて、風流味得の庭も開かれました。
そして平塚嘉右ヱ門翁、逝去されるや宝塚市は翁の地域開発の功績を偲んで「頌徳碑」を深縁の地、当山に建立し、永く後世にその偉徳を伝えんとしました。
しかし平成7年の阪神大震災で本堂以下、ほとんどの建築物や石碑が壊滅状態となり大打撃を受けましたが、檀信徒の助力により、その4年後、平成11年に復興を終えることができ、現在に至っています。
有、無、相通じて万物を生成し、創造するは天地の偉徳であります。この造化の権化身が歓喜聖天尊であります。捨て、顧みられなかった一面の荒廃地の中から、立ち上がった当山の由来を尋ねるとき、そこに本尊歓喜聖天尊の摂化利生のあとが、まざまざと拝ませられます。
出展:東寺真言宗 宝塚聖天 七宝山了徳密院 公式ウェブサイト
宝塚聖天の境内
鳥居です。寺なのに鳥居があるのは、神仏混合の名残とか。
本堂(聖天堂)
歓喜聖天尊は江戸時代、浪速の豪商、淀屋辰五郎氏の信仰されていた霊像だそうです。奥殿にはミャンマー(ビルマ)建国の父、オッタマ比丘大僧正の奉納されたビルマ仏金銅釈尊座像が祀られています。
歓喜の滝
開山堂
小林佐兵衛翁御堂
浪速の慈侠、小林佐兵衛翁の嗣子、酒井栄蔵氏は日下大和尚の滅私奉公の精神に深く感銘されて、当山に慈侠窟を建立して、佐兵衛翁の木像を安置する。民間の消防団の創始と大阪天神祭りとは翁の文化遺産なり。
出展:東寺真言宗 宝塚聖天 七宝山了徳密院 公式ウェブサイト
こちらに祀られていらっしゃる小林佐兵衛翁(明石屋万吉)は、司馬遼太郎の小説「俄・浪速遊侠伝」の主人公でもあります。
平塚嘉右ヱ門翁徳碑
行者堂
宝塚聖天 大光明殿
道を挟んで向かいに、第十期海軍甲種飛行予科練習生の慰霊碑のある光明殿があります。屋根上には零戦のレプリカが鎮座しております。
零戦
下から見上げるとこんな感じです。建物内部には遺品や遺影など展示されています。
神風特別攻撃隊之魁/甲飛十期之碑
昭和初期、海軍航空戦力の急激な拡充を目指して、甲飛予科練制度が創設され、我々は昭和十七年(十九四二年)四月一日、土浦海軍航空隊に第十期甲種飛行予科練習生として入隊、秋霜烈日の猛訓練に耐え飛行練習生教程を終えて太平洋戦争決戦の大空へ巣立った。昭和十九年十月フィリピン・レイテ湾に米航空母艦三十数隻を含む大機動部隊が殺到、迎え撃つ我が栗田を主力とする連合艦隊とのフィリピン沖海戦は、太平洋戦争中最も熾烈な一大海空戦であった。時に第一航空艦隊司令長官大西滝治郎中将は、この国家存亡の瀬戸際こそ二百五十キロ爆弾を零戦に装着、一機一機肉弾体当り攻撃の他なしと決意し、十月十九日、第二〇一航空隊副長玉井中佐に特攻隊の編成を命じた。命を受けた彼は、かつての教え子甲飛十期の零戦搭乗員より二十四名を選抜し、第一神風特別攻撃隊を編成した。
ああ、これが特別攻撃隊の魁になろうとは
敷島の大和心を人問わば 朝日に匂う山桜花(本居宣長)
この歌より隊名を敷島、大和、朝日、山桜の四隊とし、直後菊水隊が加えられた。索敵数日、十月二十五日に至り各隊見敵に成功、祖国の安泰を祈り一矢報いる信念に燃え、全機突入多大の戦果を挙げた。若干20歳にも満たない若者がひたすら祖国最後の勝利を信じ、父母を思い故山を偲び、黙々とその任務を完遂して散華し、卒業時1004名の80%が還らぬ人となった。その崇高で至純な行為と精神を後世に伝え、霊を慰め徳を顕彰する為にこの碑を建立する。
この碑文を見て、しばらく呆然としてしまいました。戦争は何があってもしてはならない。そう思いました。
レイテ海の真砂
レイテ海の真砂
この海に甲飛十期生が数多く特攻で散華し光明の珠となり輝いている。
甲飛十期會
戦没者追悼平和祈念の碑
靖国神社記念樹拝受の碑
鐘楼
宝の塚石碑(宝梅中学校内)
かつて宝梅園内にあった古墳でありますが、現在は宝梅中学校に移築されています。
宝の塚由来
この塚は八馬家の宝梅園梅林内(現在地より南西約二〇〇米の地)にあったものを昭和参拾八年椎崎良英氏がこの地を造成するに当り宝塚市が寄贈をうけ昭和参拾九年参月現在の地点に復元した
現在幅約六・五米奥行約五米高さ二米の古墳のような石室で古くから宝の塚として永く市民に親まれているものである
昭和参拾九年十月吉日建立 宝梅園農場株式会社
まとめ:宝塚聖天寺は戦争の記憶を残す貴重なお寺だった
境内全てがご紹介できたわけではありませんので、公式サイトの境内地図を拝借して貼っておきます。再度訪問した場合はちゃんと写真を撮影しようと思います。。(※画像内クリックは機能しません。)
歴史もあり、戦争についても考えさせられるお寺だと思います。お近くにお越しの際にはぜひお立ち寄りいただければと思います。
アクセスなど基本情報
名称 | 宝塚聖天 七宝山了徳密院 |
住所 | 兵庫県宝塚市宝梅3丁目4−48 |
電話 | 0797-71-6948 |
本尊 | 歓喜聖天尊 |
創建 | 大正8年 |
コメント